生きてるだけで

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義父が余命2か月の宣告。入院の記録。

こんにちわ、晴美です。

近況と、親族の入院生活の書き留めです。

 余命2か月

義父は入院はしておらず、義母とふたりで暮らしていた。80を過ぎた老夫婦。
デイサービスも介護施設のお世話になってないのは子どもたちからみると不安にも、なんとか暮らしていた。

6月の終わり。夫の父(以下、義父)が倒れ、病院に運ばれた。
その日の夜には夫に連絡がいき、容態を聞いていた。

「あと数日の命でしょう」

最初は搬送先の病院で医師にそう言われたらしい。しかし翌日になって

「あと2か月でしょうか」

と言い直された。
ずいぶんいい加減だが、数日から2か月に延びたと思うことにした。

これまでの義父の状態

義父は前立腺ガンで何年も病院通いをしていたが、義母や夫や兄弟がそれを知ったのはなんと1年ほど前のことだった。義父本人はいまだに知らない。

患者本人が知る知らないは、家族次第だが、家族さえも病名を知らされていないのは今も昔も聞かない。(素人の感覚だが)
義母は「もっと早くいってくれればねえ」と会う度にこぼす。もっともだ。

数年前から食欲が落ち、義母が色々作って食べされようにも箸が進まない。
身を案じて実家へ行くと、すこしずつ、確実に食が細っているのがわかる。
夫とわたしがいると、義父は気を遣って食べる。義母は構わず「ああ、今日はこんなに食べてくれたわ」と大きな声でわたしたちに言う。
きちんと髭をそり、自分で身支度が出来、お手洗いもお風呂も自分でする。部屋着でもキレイなものをまとい、わたしには「いつもすみません」と頭を下げる昭和一桁生まれの義父。50も年下の、頼りなく気の利かない嫁にお礼を言ってにこやかに、穏やかにしてくださるのは、大変有難く申し訳なかった。

義父の見舞い

入院から二日後。わたしは勤め先のスーパーを早番で上がり、バスや電車を乗り継いで都下郊外の病院へ向かった。免許は持っているが、鬱病とパニック障害をやってから全く運転していない。完治、もとい薬をやめて2年経つのでそろそろペーパー教習を考えていた矢先。あれほど頑なに嫌がった夫もこれを機にやっと了承した。不便や出来事が現実になると、甘えた答えが出せなくなる。

「○○(夫の名前)の嫁さんが来たよ」と義母がはっきりした声で横たわる義父に呼び掛けた。

「パパ」と声をかけたわたしは、息が止まった。確かに義父だが、こんなに顔色がよくないのは見たことがない。手足のむくみが顕著だ。それでも義父は「これはこれは、いつもすみません・・・」とわたしの顔をみた。表情はいつも通り、おだやか。

その前に会ったのは1か月ほど前。義母の兄が亡くなり、義母が葬儀に出掛けた。
わたしはその間実家にいき、義父と留守番をしていた。

ある本で読んだ「お年寄りの身体は1か月で変わる」は本当だった。

義父の病状

先に書いた前立腺がんから、腎臓を患い腎不全になった。そして、がんが大きくなっている。そう義母から聞いた。

「うちはいいのよ。もう長いんだし」

義母はしれっとして、気を遣うなの意味をわたしに言う。無礼な書き方で恐縮だが、わたしは本当にありがたい家に嫁いだと思う。

同居も近居もせず、1か月か2か月に一度出向いて「パパ、ママ」と笑って義母の作った手料理をいただき、洗い物だけして帰った。これでは娘となんら変わらない。実際男兄弟しかいないので、もし娘か何かと思っているなら、これほど嬉しいことはない。

義父の最近

週に2回ほどわたしが病院へ赴き、週末夫が行けるときは同行している。むくみの程度や箇所、顔色は行くたびに変わる。今日は顔がむくんでいるけど、手足がほっそりしている。その次は顔色が悪いけど、むくみが少ない。言葉をかけても反応が薄いこともあれば、自力でお手洗いにいくこともある。

義父が病院へ入り、はっきりと余命宣告をされたことを受け、彼の心持ちも次第に変化していった。男性は親の終焉が近くなっても、なかなか現実を受け入れられない人が多い。夏休み前で大急ぎで仕事を片付けてたのが幸いした、忙しくてナーバスになれなかったのだろう。まめに病院へ行こうとしている。

すこし長くなったので、また書けるときに書きます。

この記事が、誰かの参考になれば大変幸いです。

最近読んだ本

父よ、ロング・グッドバイ 男の介護日誌

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もし明日、親が倒れても仕事を辞めずにすむ方法

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